C型肝炎の治療

1回目のインターフェロン

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ガンが完治した後、先生から肝炎ウイルスが肝臓ガンの製造元なので、そのウイルスをやっつけることが、肝臓ガンにならない唯一の方法だからぜひ今度 はインターフェロンをするようにと言われ、するよりほか道がありませんでした。ということですることに決まりました。

さんざん脅かされ、インターフェロンから逃げ出し、結果的にガンになって始めて主治医の説明を真剣に受け、インターフェロンに正面から向き合い、ガ ンをやっつけてまだ月日も余り経たない頃、4月からインターフェロンを始めることになりました。亡くなった彼にさんざん脅かされているので不安でいっぱい でした。

でも主治医は言ってくれました。貴女のことは僕が責任を持つから、何かあったらすぐ連絡するように、夜中でも何時でも電話をしていいよ。

対処は自分が必ずするからと、ご自分の携帯電話も、自宅の電話も、パソコンのメールアドレスも、又ドミニカに出張する時はドミニカの連絡方法も教え られました。ここまで、私の不安を消すための手だてを尽くして下さいました。

いかに私がインターフェロンを怖がったかお分かりと思います。

本当にドミニカまで連絡を入れました。後での笑い話ですが、ドミニカまで付いて来た患者はあんたが一人だと。それは、そんなに不安だったということ です。このような経緯が主治医と患者の心を通わせ信頼関係で結ばれました。(先生と私の信頼関係を他の肝臓病専門医の先生方がうらやましがります。)

この肝炎に対する不安は、そういう立場に置かれた者のみが知る不安です。知っている方で肝臓ガンであれよあれよという間に逝ってしまう早さ、治療が できなくなると後何日と命の終わりを告げられます。

つい先日、あるC型肝炎の患者さんからかかってきた電話に、その立場にならないと分からないし、分かってもらえないという話も出ました。

又南海病院に入院です。今度はインターフェロンです。
入院中に付いた南海の主治医が私に言いました。僕だったら吉田さんのような症状でこんな治療はできません。(当時私の血小板は5万くらいだったと思いま す。肝臓の数値は3桁でした)

火曜日にみえた寺尾先生に言いました。「先生私モルモット?」。「えっ」、驚く先生に南海の主治医の言葉を告げると、一言、

「経験が違うよ、手がけた人数が違うよ。心配しなくていい、大丈夫だよ。きっと良くなるから。」
「私が責任持つから。」

と言って下さいました。この体験談を書きながらこの言葉で私の心が先生に無条件になったんだと今分かりました。
そんな不安を抱えインターフェロンを始めました。

インターフェロンを注打すると1時間ぐらい経つと熱が出始めます。寝ている間に熱が出て少しでも楽なようにと気遣っていただき、入院中は多分9時頃 注打したと思います。

人は熱だのいろいろなことに慣れてくるものですね。無事にというか、慣れてというか、1か月で退院し、家から月、水、金曜日にインターフェロンを打 ちに行きました。退院後は夕方6時頃に打ちにかよいました。1回打つ毎にインターフェロンの重苦しさがずしんと重く体に残っていくのが感じられるようにな り、髪の毛は白髪はほとんど抜けないで黒毛ばかり抜けました。

有難いことに髪の毛は重たいほど多かったので他の方には抜け毛はほとんど分からなかったと思います。

熱は少ししか出ませんでしたし、吐き気もありませんでしたが、本当に食欲はなく、何も食べたくないのです。

これではいけないと無理して、ソーメンや焼きなすなどのあっさりしたものを食べました。インターフェロンは肝炎ウイルスもやっつけますが、自分の免 疫力もやっつけてしまいます。

免疫力が無くなり、寿司で食あたりになり、死ぬ思いもしました。が、C型肝炎ウイルスが無くなりました。ヤッター、ウイルスに勝った。でも結果的に は決められた本数を2本残してギブアップしました。たった2本がきつくてできなかったのです。

今考えても悔しいと思いますが、先生が辞めようと決断してくれました。
見ていられなかったんだと思います。

いくらも経たないうちにウイルスは勢力を盛り返してカムバックしてきました。ずっしりと重く残ったインターフェロンの後遺症は1か月以上は続きまし た。

ウイルスに負けたことが残念でした。
これが第1回目のインターフェロンの結末でした。

この第1回は平成12年4月から9月まで6ヶ月間、最後の2本は精根尽きてバンザイしました。主治医はいいよ、よく頑張ったね、と労って下さいまし た。

ここには書いていませんが、長い6ヶ月の間、少しでも楽しむことを見つけて笑うことに務めました。
主治医の寺尾先生とは毎回漫才的なやり取りをし、言葉遊びをし、楽しみました。きっと先生も教授とか、医師とか、患者とかの域を忘れてホッと息が抜けたの ではないかと思っています。

診察中には病気の話ではなく全然関係のない笑える話、食べ物、夢、好きなもの、とんでもない質問、意地悪もしました。

私はやっぱりこんなことを許してくれた先生のおかげで楽しい治療で免疫力が上がり、完治に向かっていったのではないかと思っています。医学的治療だ けではなく、こんな心情もやっぱり治療だと思いませんか。


2回目のインターフェロン

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第1回目の治療の最後の頃ゼロになっていたC型肝炎ウイルスでしたが、完全に消滅していたのではなく、潜んでいたらしいウイルス が、治療が終わって1か月するかしないくらいで返り咲いてきました。

返り咲いたウイルスの数量がどんどん増え、少し少なくなるのを待とうということでしたが、なかなか余り少なくならず、とうとう9月になり、多いけど やってみようかということで、いよいよ2回目のインターフェロンが始まりました。

今度はある程度のことは分かっていましたし、2回目だからということで、今回は入院なしてでやってみようということになり初日から通院で始まりまし た。

今度こそは絶対に最後までやり抜くぞ、ウイルスにもインターフェロンにも負けないぞという心構えで始めました。

最初の方はまあ余裕がありました。1か月もする頃ウイルスはマイナスになりましたが、もういけません、今回も熱は余り出ませんでしたが、1日1日と インターフェロンが蓄積され、炊事などしたくなくなるというより、食べたくなくなっていきました。

それでお友達のお世話で介護の配食を受けることにしました。
1回分のお弁当で1日を過ごしていました。今回は秋から春までというプログラムで出発したので夏ばてという余計なものはありませんでしたので、少しは楽か と思いましたが、なかなかそうはいきませんでした。

負けないぞ、頑張るぞ!だけではなかなか持久力は保てません。やはり食事は大切な力ということを今さらながらに実感しました。

1回目の時もそうでしたが、年が明けてから病院に行く以外はただひたすら寝ていましたというと、聞こえが少しは良いのですが、何もする気力が無く、 起きあがる気力もなく、私は読書が好きで病気でも枕元に本を置き読んでいるのですが、とてもそんな気力がなく、ただ寝ていたということでした。

自分では病院に行く時だけは気合いを入れて元気のような顔をして行きました。他の方たちがそのように見てくれていたかは分かりません。思考力もなく なり、誰と話すわけでもなく、やっぱり鬱になっていたのかもしれません。私にはそういう認識はありませんでしたが。

考えてみますと、知らない、分からないということが、一番の不安材料で、熱が出た、私の場合どんなふうになるのだろうとか、食欲がない、衰えてしま うのでは?治る中に入れるのだろうかとか(1/3しか治らないのですから)と要らない心配をし、いろいろと招き集めて考えたり心配したりしていました。

この不安な心が免疫力の減少に拍車をかけているのだと思います。2回目ではあるし、ある程度のことは経験済みですから、それに寺尾先生を100パー セント信じていましたし、なんと言っても夏ばてというものが今回はプラスされませんでしたからやっぱり楽でした。



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