2007年5月
「みっちゃん姉」の原文 その1
C型肝炎も肝臓ガン2回も完治して
C型肝炎は普通の病気とは感覚的に全く違い、何十年という長い年月を経て外見から感知できず、自覚症状もほとんどなく、言われてみれば少しは疲れやす
かったかなと思えるくらいで、静に潜行し肝硬変になったのも気付かず、ガンに移行していきました。5年あるから、10年あるからと油断すると、5年や10
年なんてあっという間に過ぎました。そんな私の体験を聞いて下さい。
毎日元気に働いているし、元気でどこも悪くないし、安心して正月を迎えたいために、平成11年12月22日、医者に行かない歴6年を経て、かかりつけの
病院ではなく別の病院へ検査に行きました。血液検査、造影CTが終わり、呼ばれて診察室の中に入りますと、「家族の方を呼んで下さい」これが今日の検査で
出された答えでした。
私がこんなことを言われたらガンに決まっているからです。このままにしていると10年経ったらガンになりますと、平成2年春に、県立病院で言われた言葉
がとっさに頭をよぎりました。もう10年経っていました、あっという間に。
病気というものは心も一緒に病になってしまうものです。主治医の治してあげたいと思う熱意と、完治したいという私の心も無視できなかったと思いま
す。それから楽天的な私の性格も又優位に働いたことと思います。
つらかったインターフェロン療法を経て、肝臓がんの製造元である肝炎ウイルスがゼロになってからもう6年も経った今年(平成18年)2月、主治医がエ
コーで5ミリくらいの肝ガンを発見しました。1週間後には前回と同じように塞栓術方法でおこなわれました。今度は抗ガン剤の種類を変えたとかで、それが合
わなくて嘔吐し、つらい思いをしました。
実は肝臓ガンは1つ出たら必ずもう1つの芽を連れてきているから、次のガンの芽が出たらすぐやっつけないといけないから、気をつけるようにと言われてい
ましたし、(このことを知らされていましたから2回目のガンは平静に受け止められました。)エコーで5ミリくらいのガンは、普通は見つけきらない小ささで
すが、毎回、どんな小さなガンでも見落とさないようにと真剣に目を凝らせて診て下さっていた賜と思います。
先生もこれを見逃したら大変なことになると、3か月に1回必ずエコーをしていました。もちろん造影CTも(これは1年に1回)。私自身は元気が取
り柄というくらいにインフルエンザのみでなく、風邪さえも引きませんでした。ガンが無くなり、肝炎ウイルスもなくなってからは食欲が旺盛になり、真夏でも
元気で何でも食べれるようになりました。おかげで5キロも太ってしまいました。ガン発見からそんな6年間でした。6年間ウイルスがゼロであっても、やっぱ
り先生の言うとおりガンはセットでと言うか次のガンの芽を連れて来ていたんですね、ガンが芽を出したことには驚きました。このこと(アベックで出てくる肝
臓ガンのこと)は他の医師からは聞いたことがありません。その時主治医曰く、もうガンを製造する元が何もないから100パーセントとは言えないが貴女はガ
ンにはならないでしょう。と言ったのが平成18年3月でした。C型肝炎が完治して6年(肝炎ウイルスもゼロになって)、ガンのセット2回も完全に完治し、
18年8月の検査でGOTは15でした。
つらかった~2回続けたインターフェロン、2回の塞栓術方法によるガン排除を受け頑張って良かった、命と隣り合わせの治療であっただけに、なんだか新し
い人生が開けたような思いです。(これから先はオマケの人生、人様のお役に立ちたい、ありがとうの会を立ち上げるとか、私でできることをできる時に一生懸
命やらせていただいています。)
私の体験を通して、少しでも同病の方のお役に立てるようならと、ペンではなくパソコンをたたいております。
私もそうであったように、こんな時は?、あんな場合は?と、疑問、不安、ご質問等があると思います。私の経験を通して分かる限りはお伝えいたしたいと思
います、今でもいろいろ質問を受けます。私の分野を超えることについては、私の主治医である、肝臓学会大分県の責任者、指導医でもあり大分大学教授の寺尾
先生の御指導等もいただけるようになっていますのでご遠慮なくお申し出下さい。
もし、あの時検査に行かなかったらと思う時、冷や汗が出ます。今頃はあの世とやらだと思います。ガンが次から次へと出始めたら治療ができなくなるそうで
す。
知らないと損をすることだらけです。73歳(昭和8年9月12日生)の老春を謳歌している私の体験談です、いろいろな面でお役にたてることを願っており
ます。
私の場合C型肝炎と診断された時は、突然事故か何かにあったような納得できない思いでいっぱいでした。(言葉にするとたったこれだけですが)
それは平成2年の春、家にかかって来た電話が聞こえず、驚いて耳を代えると反対の耳は聞こえました。当然の事ながら耳鼻科に飛び込みました。当時流行っ
ていた突発性難聴で、時をおくと治らなくなるから、今すぐ県立病院の耳鼻科に入院するようにということなので、私の目の前で県立病院入院の予約をしてくれ
ました。入院は2週間位ということで、何はともあれ、私は両足が悪いのに(重度障害者です)耳まで悪くなっては大変と、そのまま入院しました。(私の家は
大分県の最南部の町佐伯市で県立病院までは車で約1時間半くらいかかります)治療の結果は5日目くらいにはもう聞こえるようになっていましたが、1クール
2週間やらないといけないということで治療を続けました、この時の治療法のメインはステロイド1リットルの点滴と、ブロック注打でした。このブロック注打
をすると喉が麻痺するので唾も飲み込めなくなり、昼食は麻痺が無くなってからでした。このような毎日の治療の終りの頃、主治医がオロオロしながら言いまし
た。「大変です、血小板が毎日1万ずつ下がっています」(血液検査は毎週していて、その日まで何も言われていませんでした)が、無知であった私には血小板
が下がったのがなぜ大変かも分かりませんでした。(血小板が下がるのは肝臓の機能がおちていることのようです)そんな経緯で内科受診に回され、内科の先生
に簡単に言えばあなたはC型肝炎です。治療をしましょうでした。
ちょっと待ってよ。私の悪かったのは耳で、何でC型肝炎の治療をしないといけないの。
きっと耳鼻科の薬の副作用(当時ステロイドの副作用のことは結構取り上げられていました)でこんな病気になったのだと思い、県立病院入院で当初の難聴は
癒したが、薬の副作用で次の病気を引き起こしたから県病は藪医者だと思いこんでしまいました。
というような納得できない経過でC型肝炎を宣告されました。とても受け入れられるものではありません。多分皆さん方もC型肝炎を納得のいかない思いで宣
告されたと思います。
さあ、こんな所に長くいたら大変と、以後の内科受診も治療も拒否し続け、治療拒否で強制退院という形でやっと退院したというか、逃げ帰ったというような経
緯があります。
でも最後に内科の先生はそんな私に腹を立てて、このままにしていると10年経ったら癌になります。と言い放たれました。
こんな納得のいかない状況で私とC型肝炎との長い付き合いが始まりました。
でも別に何の自覚症状もありませんでしたし、元気に仕事もできていましたし、忙しい時は徹夜もしていました。これがもの「言わぬ肝臓」の特徴ということ
は知っていましたが、自分のこととしては受け止めていませんでした。
退院して家に帰り、地元では設備も整い一番良いと思われる南海病院で受診し、やっぱりC型肝炎と言われ、治療を受けることになりました。この時は、この
病院には専門の肝臓医がいなくて、医大から週1回診察にみえる腎臓病の専門医が取りあえず主治医でお世話になりました。治療にキョウミノ注打3アンプ週3
回でした。先生には申し訳ありませんでしたが、肝臓の専門医でないということは、私にとってはやはり頼りなく、心配でした。行ったり休んだりしていたと思
います。主治医が信じられないことほど患者にとって不幸はありません。
そのうち肝臓専門医が医大から火曜日の午後診察に来られるようになりました。(このドクターは、C型肝炎の友だちに紹介され、この後15年以上のおつき
あいとなる肝臓学会で大分県の責任者であり指導医でもあります。大分大学の教授、医大の教授、医学博士という凄い肩書きの方でしたが、(小さい声で言いま
すと初対面はなんだか近寄りがたく、感じは余り良くありませんでした)ところが、なんでこんなになったのか思えるくらいに仲良しというか、気が置けないと
いうか、お友達みたいになってしまいました。(これは多分、先生に家出おばさんと言われますが、6年余間も治療を受けないうちにガンになって、オマケによ
その病院の依頼状等を持って帰ってきた時、やさしい気遣いを受けて私の心が全開したことと、お断りしたのに寺尾先生への依頼状を下さった、検査を受けた先
生に手紙を渡すようにと持たされました。
多分私のことを書いた書面と思います。先生の心の広さ、優しさが心の琴線に触れてのことだと思います。友だちたちには「寺尾先生からよく引き取ってもら
えたね。」と言われました。
このように大変なことになるとは思いませんでしたが、C型肝炎はなかなか手強い相手のようです。
後の話ですが、肝臓学会主催の無料市民肝臓公開講座で体験談などもいたしました。(私の病歴が、C型肝炎のお手本のような経過をたどってガンになって
いったとの理由からだそうです。)
やっと専門医が主治医となり、治療として週3回、1回の量5アンプのキョウミノの注打を受けましたが、(後で知りましたが、これは対処療法でしかなく直
すための治療ではありません)1年経っても、2年経っても当然ながら少しは良くなってきましたよ、というような言葉は1回も聞いたことがなく、私自身も体
の調子が悪くなっているという自覚症状もなく何の変化がありませんでした。(ただ、先生は肝機能の数値が下がり落ち着いてきたと言っていました。)その当
時の推移を表にしていますが、それをこの体験談に付けて下さるそうです。
当時、まだC型肝炎の正体を知らない私は何年間も良くもならない、悪くもならない症状に飽き飽きしていました。(医師は分かりやすい言葉で、患者が理解
できるように、肝炎について説明がされていないと思います。私も同じでした。が、先生としてはきちんと説明しているつもりです。専門用語で、理解したかも
確認なしだのに、分かってくれていると思いこんでいます。又、聞いている患者も真剣に聞いていない部分もあります。)
その頃には、いつも会うたびに主治医に「インターフェロンをした方がいいよ、貴女はウイルスが少ないから治るよ。」と言われ続けました。C型肝炎ウイル
スにはⅠ型とⅡ型があります。私はⅠ型でウイルスが多い方なんだそうですが、当時はⅠ型としては少なかったようです。でも私にはインターフェロンをやりた
くない事情がありました。このドクターを紹介したのは友だちの彼で(彼氏の彼ではありません男性という意味です。)この彼から(当時彼はもう肝硬変まで
いっていたようでした)、「1回やるのに半年もかかり、お金も200万くらいは掛かるとか、(当時保険が適用されていませんでした)ひどい熱が出るとか、
人によっては熱の出る時ベットがガタガタするくらいな寒気がくるとか、食欲がなくなるとか、吐き気がするし、髪の毛も抜けるとか、うつ病になるし、自殺し
た人もいる。やった人の1/3は確かに良くなるが、1/3は全然変わらなく、あとの1/3は逆に副作用で悪くなり、死んだ人もいる。それを入退院を繰り返
しながら見てきたから絶対にしない方がいい。」と言われていました。そんなことを聞いて200万なんてお金もないし、どうして30パーセントに命がかけら
れますか。でも主治医は私の心とは違ったことを考えていたのでしょうが、当時の私には分かりませんでした。(医者は説明の言葉が足りないし、分かりやすく
説明ができていない。(患者と目線が違う)何故インターフェロンという厳しい治療が必要かというと、C型肝炎ウイルスをやっつける可能性を持っているのは
インターフェロンだけでした。C型肝炎ウイルスに感染した場合約80パーセントが肝硬変からガンに移行し、死亡していくといわれておりるので、肝臓ガンに
ならないために当時成功率30パーセントというインターフェロン治療を薦めていたわけです。医師側は30パーセントでも助かるのなら、賭けるべきではない
かというわけです。)というのが平成12、3年頃の治療法の主流でした。
主治医に彼がこんなことを言ったと言うわけにもいかず、インターフェロンから逃げて1回休んだのがきっかけで治療をずるずると6年以上休み続けました。
こんな時、もと病院の婦長をしていた友達が心配して検査を受けるようにと言い続けてくれました。自覚症状が殆どない肝炎に、当時忙しかった私は検査なん
かに取りあっておれませんでした。
自分の気持ちの中では肝炎が悪化しているとは思えなかったからです。自己診断とは自分に都合がいいように判断するようです。本当はこれが一番怖いんです
よね。
平成11年12月22日午後、急に時間の空きが出来たので、検査をして肝臓が悪くなっていないことを証明して、楽しい正月を迎えようと思い、午後からで
も診てくれる病院で検査を受けました。呼ばれて入ったのですが、「家族の方を呼んで下さい」と言われ結果は聞かされませんでした。とっさに思い浮かべたの
は県立病院で先生に腹立ち紛れ言われたこのままにしていたら10年経ったら癌になるという言葉でした。ということは、やっぱりあの時、県立病院で言われた
言葉が本当のこととして私の体に現れたのだと、そう思ったのです。(この私のたどった経過がC型肝炎の教科書通りのようです)
それに、主治医を私に紹介し、インターフェロンを拒否した彼は、ガンに移行し、次々にガンが増え、治療ができなくなり、痛みながら亡くなっていました。
彼の命を奪ったガンが今、私の肝臓で3センチにもなっているのです。何が良い正月を迎えたいでしょうか。真っ暗な心で私は治療してもらうのは主治医以外
にないと決心し、検査を受けた病院のドクターに、実はと、主治医の名前を告げ治療はそちらで受けたいと申し出ましたら、その病院の先生が寺尾先生ならと気
持ちよく検査した全ての資料に、所見も添えて持たせられ、面目ありませんが、やはり治療は今までの主治医である寺尾先生から受けたいとの思いで、主治医の
許に帰ってきたのです。
6年以上も音沙汰なしでいた上、よその病院のデーターを持って現れた私を、文句も言わず黙って受け入れてくれました。(多分この時先生の優しさに心を全
開したのだと思います)先生も癌とは言わず、3センチになっていた癌をきれいにやっつけてくれました。開腹手術ではありませんでした。(主治医曰く。僕と
しては本当は開腹して中が見たい、ですって。この方は無口でというか、こんな冗談を言って私の心をほぐしてくれるようにはみえない方でした。でもこんなや
り取りが私の心を信頼に向けていきました。)私のガンは塞栓術と決まりました。ガンのできた場所によってどのような方法で切除するかが決まるようです。そ
の手術は寺尾先生の指示により南海病院放打線科で行われました。
肝臓ガンが良くなった後、死んでいった彼と同じ目に合わないためには、肝炎ウイルスをやっつけるしかない。それはインターフェロン治療しかないと言われ
ました。当時私は65歳の身体障害者でした。障害者は65歳から老人保健になるのと、インターフェロンが保険適用になっていたし、手術等にかかるお金につ
いては時期的にラッキーでした、やっぱり死にたくありませんでした。
ガンが完治した後、先生から肝炎ウイルスが肝臓ガンの製造元なので、そのウイルスをやっつけることが、肝臓ガンにならない唯一の方法だからぜひ今度はイ
ンターフェロンをするようにと言われ、するよりほか道がありませんでした。ということですることに決まりました。
さんざん脅かされ、インターフェロンから逃げ出し、結果的にガンになって始めて主治医の説明を真剣に受け、インターフェロンに正面から向き合い、ガンを
やっつけてまだ月日も余り経たない頃、4月からインターフェロンを始めることになりました。亡くなった彼にさんざん脅かされているので不安でいっぱいでし
た。
でも主治医は言ってくれました。貴女のことは僕が責任を持つから、何かあったらすぐ連絡するように、夜中でも何時でも電話をしていいよ。対処は自分が必
ずするからと、ご自分の携帯電話も、自宅の電話も、パソコンのメールアドレスも、又ドミニカに出張する時はドミニカの連絡方法も教えられました。ここま
で、私の不安を消すための手だてを尽くして下さいました。いかに私がインターフェロンを怖がったかお分かりと思います。
本当にドミニカまで連絡を入れました。後での笑い話ですが、ドミニカまで付いて来た患者はあんたが一人だと。
それは、そんなに不安だったということです。このような経緯が主治医と患者の心を通わせ信頼関係で結ばれました。(先生と私の信頼関係を他の肝臓病専門
医の先生方がうらやましがります。)
この肝炎に対する不安は、そういう立場に置かれた者のみが知る不安です。知っている方で肝臓ガンであれよあれよという間に逝ってしまう早さ、治療ができ
なくなると後何日と命の終わりを告げられます。つい先日、あるC型肝炎の患者さんからかかってきた電話に、その立場にならないと分からないし、分かっても
らえないという話も出ました。
又南海病院に入院です。今度はインターフェロンです。
入院中に付いた南海の主治医が私に言いました。僕だったら吉田さんのような症状でこんな治療はできません。(当時私の血小板は5万くらいだったと思いま
す。肝臓の数値は3桁でした)
火曜日にみえた寺尾先生に言いました。「先生私モルモット?」。「えっ」、驚く先生に南海の主治医の言葉を告げると、一言、「経験が違うよ、手がけた人
数が違うよ。心配しなくていい、大丈夫だよ。きっと良くなるから。」「私が責任持つから。」と言って下さいました。この体験談を書きながらこの言葉で私の
心が先生に無条件になったんだと今分かりました。
そんな不安を抱えインターフェロンを始めました。
インターフェロンを注打すると1時間ぐらい経つと熱が出始めます。寝ている間に熱が出て少しでも楽なようにと気遣っていただき、入院中は多分9時頃注打
したと思います。人は熱だのいろいろなことに慣れてくるものですね。無事にというか、慣れてというか、1か月で退院し、家から月、水、金曜日にインター
フェロンを打ちに行きました。退院後は夕方6時頃に打ちにかよいました。1回打つ毎にインターフェロンの重苦しさがずしんと重く体に残っていくのが感じら
れるようになり、髪の毛は白髪はほとんど抜けないで黒毛ばかり抜けました。有難いことに髪の毛は重たいほど多かったので他の方には抜け毛はほとんど分から
なかったと思います。
熱は少ししか出ませんでしたし、吐き気もありませんでしたが、本当に食欲はなく、何も食べたくないのです。これではいけないと無理して、ソーメンや焼き
なすなどのあっさりしたものを食べました。インターフェロンは肝炎ウイルスもやっつけますが、自分の免疫力もやっつけてしまいす。
免疫力が無くなり、寿司で食あたりになり、死ぬ思いもしました。が、C型肝炎ウイルスが無くなりました。ヤッター、ウイルスに勝った。でも結果的には決
められた本数を2本残してギブアップしました。たった2本がきつくてできなかったのです。
今考えても悔しいと思いますが、先生が辞めようと決断してくれました。見ていられなかったんだと思います。
いくらも経たないうちにウイルスは勢力を盛り返してカムバックしてきました。ずっしりと重く残ったインターフェロンの後遺症は1か月以上は続きました。
ウイルスに負けたことが残念でした。これが第1回目のインターフェロンの結末でした。
この第1回は平成12年4月から9月まで6ヶ月間、最後の2本は精根尽きてバンザイしました。主治医はいいよ、よく頑張ったね、と労って下さいま
した。
ここには書いていませんが、長い6ヶ月の間、少しでも楽しむことを見つけて笑うことに務めました。主治医の寺尾先生とは毎回漫才的なやり取りをし、言葉
遊びをし、楽しみました。きっと先生も教授とか、医師とか、患者とかの域を忘れてホッと息が抜けたのではないかと思っています。診察中には病気の話ではな
く全然関係のない笑える話、食べ物、夢、好きなもの、とんでもない質問、意地悪もしました。私はやっぱりこんなことを許してくれた先生のおかげで楽しい治
療で免疫力が上がり、完治に向かっていったのではないかと思っています。医学的治療だけではなく、こんな心情もやっぱり治療だと思いませんか。
「みっちゃん姉」の原文 その2
現在ではインターフェロンもいろいろあり、ペグインターフェロンとリバビリンの併用でしかも1週間に1回、但し1年間続けます。治癒率は50パーセ ント近くです。それにインターフェロンがウイルスを消滅しきれなくても肝硬変、肝ガンになるのを遅らせるとのことです。ペグインターフェロンも友人が1年 かけて終わりましたが、打つたその日を入れて3日間夜も眠れないほどにきついと言っていました。肝炎ウイルスをやっつけるには相当の決意と努力がいるよう です。でも人それぞれというところもあるので、当たって砕けろでいくのがいいのではないでしょうか。
それともう一つうれしいお話しです。私の肝硬変が、C型肝炎が完治して3年くらいの頃肝生検をしました。長い注打針より少し太い針を使って針を差
し込んで肝臓の組織を吸い取るというか、削ぎ取って、それを検査します。局部麻酔で痛くはありませんが、何かコツンとしたと思ったら、アッ、骨にぶっつ
かったと笑いながら言いました、余分に取っておかないと検査に足りないと困るからと言う先生。好きなだけ取ったら、おかずにするほどは取らないでと、私。
手伝っていた婦長が吹き出しました。
寺尾先生が「肝臓の組織、見たい?」というので即「見たい、見たい」といいました。ピンクと白の混ざったそれはきれいな肉片というか肝臓組織でした。結
果は、肝硬変はよくなり、元の肝臓になっていました。先生曰く「肝硬変になったら治らないといわれていたのを、肝炎ウイルスがいなくなったら良くなるとい
うことを貴女が証明した。」と。
肝臓もやはり早期治療のようです。肝臓がバテると治療方法が限定されるようです。今の私はもし又肝臓が悪くなるようなことがあったとしても、どんな治療
もできるそうです。肝臓の具合次第で治療が違ってくるそうです。
くれぐれも自己診断ではなく専門医にご相談されることをお勧めします。私は信頼できる良い医師に巡り会えて幸せだったと感謝しており、寺尾先生と一生お
つきあいしていくことに決めています。肝臓を見て下さる医者には専門医、指導医がおられます。(指導医とは医者の指導をする立場の方)専門医の先生にぜひ
診てもらって下さい。
元に戻りまして、ガンにならないためにやっぱり又2回目のインターフェロンをするより道がありません。1回目は4月から9月で、夏ばてと食欲不振の 上、食中毒までして、へとへとでしたので、2回目は秋から冬にかけてやりたいと自己主張しました。ところが先生はインターフェロンは免疫力が落ちるので、 風邪など引いたらすぐ肺炎になり、悪くするとそれで命を落とすからと反対されました。でも夏のあのつらさは2度と繰り返したくないからと、ねばり勝ちにな りました。やるなら早くやろうというのが私の意見で、ガンを取り、2か月おいて1回目のインターフェロンをやり、又2回目を間を置かないでこんなに早く やった例がない、とかいろいろありましたが9月から始めることになりました。
私は独りで住んでいる上に、肝臓ガンで亡くなった友人にさんざん脅かされていたので、熱が出たといっては悪い結果ばかり考え、不安で仕方がありま
せんでした。先生の方は、この人にはインターフェロンの副作用はこんな出方をするのかと、何百例の中から考え、では、こんなふうに対処しようと考えながら
治療していたようですが、そんなことは当人である患者には少しも伝わっておりません。
主治医がドミニカに出張している間の不安、心細さ、毎日夜は恐怖でした。とうとうドミニカまで連絡を入れてしまいました。よくなった後で考えると年の取
りがいもなく、よくもやったものだと思いました。いうならそのくらい患者というものは闇夜に船でさまよっているように不安を感じるものです。患者同士でな
ければ分からないことばかりのようです。一つ一つが一喜一憂の種でした。
肝炎の時代には、このままにしていたら10年以内にガンになります、などと言われても自分の身にそんなことが起こるなんて信じられるものではありませ
ん。なって初めてオロオロしました。しまった、ああいわれた時に治療をしとけば良かったと後悔するのです。
C型肝炎とは、医者から見たら予測ができるようです。ストーリーが決まっているといいますか、私は主治医に言われました。貴女の肝炎は教科書通りのよう
に肝炎が推移していきました。体験談に使うには、もってこいの症例ですと。
亡くなった友人は7年は生かして上げられる?(意味としてはこのようなことですが、いわれた正確な言葉はちょっと忘れました。)本当に手を尽くして、そ
のように治療していただき、予想された時期に亡くなりました。が、痛みを我慢する顔はやっぱり辛かったです。
インターフェロンをしない場合は、次々にガンができ、治療できなくなるというようであれば、ならないためにやっぱりインターフェロンをやるより外に方法
がないと言われれば、しかたがありませんでした。でも、もうその時既に血小板が下がり、経験豊かな先生でないとインターフェロン治療ができないところまで
きていたのでした。
もし、寺尾先生に出会っていなければ、先生に治療をしていただいていなかったとしたらと思う時、私はついていたというか、ラッキー、幸せ、言葉はいろいろ
あります。やっぱり寺尾先生のおかげと言うほかにないと思います。
皆さんも専門で信頼できる良い先生をさがすべきだと思います。
とにかく、回を重ねる毎にインターフェロンの薬害?が体の中にじわじわと増えていき日を増す毎にきつくなっていきました。後2本というのにギブ
アップしたくらいでした。後2本ですよ、それが頑張れませんでした。最後の頃は思考力もなくボーッと寝て過ごしました。鬱になったり、自殺した方もいると
聞いています。それでもやるより方法がないのです。
多分近い将来、もっと良い薬がでることと思います。それまではインターフェロンで頑張るしかないようです。
ガンを超えて、C型肝炎を超えて、ガンを製造する素が(C型肝炎ウイルス)失くなり肝機能が基準値内におさまり、元気いっぱいの日々を送れる喜びを皆さん
にお伝えしたくてたまりません。年老いて(と私自身は思っていませんが)も、お役に立つことが沢山あり、喜ばれ、お礼を言われ、今まで生きた人生で今が一
番幸せです。森羅万象が新鮮に思えます。
私はガンにならないために、C型肝炎を治すために頑張ってインターフェロンをと口を酸っぱくして申します。それは命と、死と隣り合わせになった時期を過
ごして、今元気に人様のお役に立てるということが、どんなにうれしく幸せに思えるか、この喜びを味合うために頑張って治療して下さい、健康になって下さい
と申します。
C型肝炎と言われたら治療次第で遅かれ早かれ命が関わってきます。病に蝕まれ、日に日に衰え顔色はドドメ色になり、命があるから生きている、ということ
で人生の最後にするには、余りにも悲しくふさわしくないと思いませんか。
人生の最後は、「皆さんのおかげで楽しい人生でした。ありがとうございました。」と言えるようになりたいと願って、皆さんもぜひそんな喜びを味わいながら
残りのと言いますか、オマケの人生を過ごしていただきたい思いでいっぱいです。
こんなこともありました。1回目のインターフェロンを始める時1か月間入院するようにとのことでした。その時先生に「私、タバコおしりから煙が出 るほど吸います。そのタバコ止めれと言ったら入院しません。」先生「いいよ、止めなくて」すましてそう言われました。インターフェロンを始めて1か月も経 たないうちに副作用の風邪模様症状に悩まされ、喉が痛くて痛くてどんなに好きなタバコでも飲めなくなってしまいました。こんな都合の良い副作用もありまし た。私「先生喉が痛くてとてもタバコなんか飲めなくなりました。」、先生「インターフェロンが終わったら又飲みだすよ。」というようなやり取りもありまし たが、6か月近くタバコを飲まなかったというより飲めなかったのだから、今さら飲んでたまるかと遂に副作用でタバコが止められました。
のど元過ぎれば熱さを忘れるという言葉がありますが、もう忘れてしまっていることが沢山あり、ふっと、ああこんなこともあったなあと思い出しま
す。看護婦をしていた友人が私の従妹に、「私だったら遺書を書く」といわれたそうです。娘はこれでもうダメか。と覚悟したそうです。私としたら寺尾先生が
責任を持つと言ってくれたのだからと大丈夫とばかり、死ぬことなんか考えたことがありませんでした。
いろいろ申しておりますが、今になって実感的にきつさを覚えているわけではありません。でも申したいことは、オマケの人生は本当に有難く、楽しいもので
す。あのきつさ、あの不安を経験したからこそ命のありがたさが味わえるのです。
私は両足が悪く重度の身体障害者です
この足を悪くした当時はどのようにして生きていこうとか、死んでしまいたいとか思いました。日が経つうちに自分の障害を受け入れられるようになれた頃か
ら、今まで悪い足のことばかりを嘆き、悲しんでいたのに、よく見える目に、聞こえる耳に、使える両手に気づき、うれしく感謝の心が湧き上がりました。見
方、受け取り方で自分自身の人生観が変わりました。つらさ、苦しさを乗り越えたからこそ見えるものだと思います。
私は、頑張ってつらい治療ですが、C型肝炎を克服した時に、今まで味わえなかった喜びの人生を味合うことができると思うのです。このことが体験の中で一
番お知らせしたいことです。C型肝炎は20年も30年もかけて悪化していきますので若い方ではいないと思います。私は今、73歳という結構老人ですが、
73歳を喜んで感謝して生きていますから、元気で活き活きしているとか、エネルギーがあるとかいわれます。
ごく最近従妹と二人で、車での2泊3日の旅行をしました。博多1泊、日本海の角島、青海島、萩、俵山温泉1泊。下関で2時間迷子でうろうろしたり、旅館
は山の又奥で真っ暗くなり、行けども行けども山の中というような山の中の旅館でした。ハプニングあり、怖さありも楽しんで通り越しました。帰りは秋吉台を
めぐり、道の駅に寄り、中国道壇ノ浦で一休み、小倉東で高速を降り、新北九州空港の2,100メートルの橋を渡り、遅くなった昼食をとりました。場内見物
やお土産買い、国道10号線で帰ってきました。二人の年齢を計算すると138歳、走行キロ約1,000でした。
喜んで、感謝して楽しみますと、免疫力も増し、エネルギーも湧きでてきます。命があるから生きているのではなく、喜んで、楽しんで、感謝して生きていっ
て頂きたいと、体験を通して申し上げたいと思っております。
が、その前にC型肝炎ウイルスをやっつけてガンの製造元をなくさなければなりません。
第1回目の時は1日おきに週3回、静脈注打でした。日中は元気でした。就寝前にするインターフェロンのため、日を追う毎に喉が痛くなり、風邪模様
副作用のみで熱も余り出ず吐き気は全然なく、入院中の1か月はあっという間にすぎました。喉だけはだんだん痛みがひどくなりました。
家に帰ったのはうれしかったのですが、病院はなんと言っても3食付きで楽でしたが、帰ると食事の支度からしないといけません。
通院になった時から筋肉注打に代わり、今日は右手に、次は左手、その次はお尻と打つたのですが、薬が散らないので固まり、痛みが取れない上に又打つので
打つところがなくなるようなぐあいでした。だんだん食欲がなくなり、インターフェロンが体に残っていくのが分かるような頃になると、暑さも厳しくなり、夏
ばてがプラスされて、また寝ているのといわれるくらいごろごろしてやり過ごしていました。そんな頃、見舞いにお寿司の差し入れがあり、これはさすがに美味
しく食べられましたが、明け方から真剣にお腹が痛みだし、下痢はする、吐きもし、トイレから帰ると、もう又トイレにと、朝までトイレ往復を繰り返しまし
た、こんなきつい腹痛は初めてでした。
病院で注打等を受けると、まもなく嘘のように痛みが消え、吐き気が治まりました。美味しかったお寿司にあたった食中毒でした。インターフェロンによりウ
イルスもやっつけているが、自分の免疫力もやっつけられていたので、私の体の中の免疫力が不在になっていたのだそうです。普段だったら何でもなく美味しい
で済んだのでしょうが、その美味しさの中にいた菌にお腹の中を引っかき回されたのでした。食中毒があんなにきついとは知りませんでした。こんな勉強はしな
い方がいいです。生ものは食べない方が安全だと思います。
夏ですから、ツルーッと喉越しのいいそうめんと、焼きなすの冷やしたので夏を切り抜けました。本当に食欲はなく義務で食べる食事はつらかったです。
第1回目の治療の最後の頃ゼロになっていたC型肝炎ウイルスでしたが、完全に消滅していたのではなく、潜んでいたらしいウイルスが、治療が終わっ
て1か月するかしないくらいで返り咲いてきました。返り咲いたウイルスの数量がどんどん増え、少し少なくなるのを待とうということでしたが、なかなか余り
少なくならず、とうとう9月になり、多いけどやってみようかということで、いよいよ2回目のインターフェロンが始まりました。今度はある程度のことは分
かっていましたし、2回目だからということで、今回は入院なしてでやってみようということになり初日から通院で始まりました。
今度こそは絶対に最後までやり抜くぞ、ウイルスにもインターフェロンにも負けないぞという心構えで始めました。
最初の方はまあ余裕がありました。1か月もする頃ウイルスはマイナスになりましたが、もういけません、今回も熱は余り出ませんでしたが、1日1日とイン
ターフェロンが蓄積され、炊事などしたくなくなるというより、食べたくなくなっていきました。それでお友達のお世話で介護の配食を受けることにしました。
1回分のお弁当で1日を過ごしていました。今回は秋から春までというプログラムで出発したので夏ばてという余計なものはありませんでしたので、少しは楽か
と思いましたが、なかなかそうはいきませんでした。負けないぞ、頑張るぞ!だけではなかなか持久力は保てません。やはり食事は大切な力ということを今さら
ながらに実感しました。1回目の時もそうでしたが、年が明けてから病院に行く以外はただひたすら寝ていましたというと、聞こえが少しは良いのですが、何も
する気力が無く、起きあがる気力もなく、私は読書が好きで病気でも枕元に本を置き読んでいるのですが、とてもそんな気力がなく、ただ寝ていたということで
した。
自分では病院に行く時だけは気合いを入れて元気のような顔をして行きました。他の方たちがそのように見てくれていたかは分かりません。思考力もなくな
り、誰と話すわけでもなく、やっぱり鬱になっていたのかもしれません。私にはそういう認識はありませんでしたが。
考えてみますと、知らない、分からないということが、一番の不安材料で、熱が出た、私の場合どんなふうになるのだろうとか、食欲がない、衰えてしまうの
では?治る中に入れるのだろうかとか(1/3しか治らないのですから)と要らない心配をし、いろいろと招き集めて考えたり心配したりしていました。この不
安な心が免疫力の減少に拍車をかけているのだと思います。2回目ではあるし、ある程度のことは経験済みですから、それに寺尾先生を100パーセント信じて
いましたし、なんと言っても夏ばてというものが今回はプラスされませんでしたからやっぱり楽でした。
ガンにしましても、家族を呼んで下さい。と言われるほどになっているのに全然体の調子も良く、元気に働いていましたので真実とは思えなかったのも
確かです。だから平然としていたのだと思います。従妹なんか落ち込んで夜も眠れなかったといっていました。
知らない、分からないということが不安材料と申しましたが、反対も又ありです。C型肝炎、肝臓ガンの怖さは聞いてはおりましたが、今までに病気というも
のをしたことがありませんでした。なので、実感的にと言うか、頭の端の方で勉強的にしか理解していませんでした。私的にはいきなり出てきた肝臓ガンでした
ので、きちんと理解できないうちにというか、楽観的に、腹を切らないで良かった的な受け止め方で切り抜けてしまいました。
後に知り合いで肝臓ガンを手術したけどバタバタと亡くなりました、という方が何人かおられます。 一人などは寺尾先生に紹介したのですが、もう手の施し
ようが無く、その方の主治医は後半年と命を限っていました。先生の指示で小さいガンを幾つもつぶしたり、先生のノウハウを駆使して治療していただいたので
すが、限られていた期日を1年近くオーバーして旅立たれ、奥さんにお礼を言われました。知らなかったおかげで悩まないで過ごしてしまいました。これは私に
とってとても幸せなことでした。今はC型肝炎が進行し、肝硬変になれば、治療次第で次は必ずガンへと行きつくことを、見聞からも経験からも知りました。
私が医学的なことを何も知らないので(病気をしたことが無く、子どもを産んだ時に帝王切開2回、事故でケガをした時は半年くらい入院、また交通事故で入
院した時には、ドクターに「安静時間に来ても部屋にいない、あんた病人でしょう」、私「病人ではありません」、ドクター「では何故入院しているの」、私
「私怪我人」、ドクター「・・・」、入院しても病気で入院したことはありませんでしたので寺尾先生に「あんたは無知、何も知らない」と言われましたが、こ
の年になるまで病気のことを知る機会がありませんでした。 私の母は元気で寝床でテレビを見ていたが、何かおかしいと父が気付き、往診に見えた医者のいる
うちに亡くなりました。9か月後の春、父は花見会から帰って碁会所に行き、気分が悪いと帰って来、嘔吐しました。往診した医師は食中毒だから明日の朝には
治っています、薬を取りに来て下さい、と帰っていきました。薬をもらって帰ってみると、もう呼吸はしていませんでした。母は脳血栓、父は狭心症という死亡
診断書でしたので、幸か不幸か医学的なこととお知り合いになる機会に恵まれていませんでした。無知であっても仕方がないと思います。
いろいろと横道にそれましたが、今回は早々とウイルス菌がゼロになりました。2回続けてしたインターフェロンがよく効いているということのようです。で
もやはり副作用の風邪模様喉の痛さには悩まされました。少しでも良い結果が証として出てくることは励みとなりました。
インターフェロンをするなと言って、自分もしないで亡くなった彼の不安材料ともなるべき言葉を1回も思い浮かべなかったことは、何とも不思議と思えま
す。人間が生きて行くには2者選択をする時その人の人生観も変わってくるように思えます。私は前向きとか、プラス思考とか言われます。そんな考え方のおか
げで70歳でなければ生きられない楽しい生き方をしています。70歳の智恵、70歳の愛(人や社会に対して)、70にならないと言えない言葉。
いろいろなことが相俟って、私だったら吉田さんの症状でこんな治療はしきらないと言ったドクター。6年間の無検査、無治療のために辿り着いていた状況で
はありましたが、信頼できる最高のドクターに出会い無事に切り抜けて、ガン完治から6年目にして連れ子のガンを退治し、100パーセントとは言えないが吉
田さんはもうガンの製造元がないからガンにはならないと思います。というところに到達しています。ふり返ってみますと人ごとのようにもあり、もう苦しさ
も、つらさも物語のように思えます。このような病気をしたおかげで、この年になってこんな形で何らかのお役に立てることを本当にうれしく、有難いと思いま
す。
後3年生きると肝臓学会の、最初のガンができた後10年延命することが目標という10年になります。今はいろいろといい薬も出来肝臓ガン後10年生きた
方がでてきていると思います。
今の私の気持ちは余りに楽しく元気なので90歳まで生きそうに思えます。ということは後17年しか生きれないことになります。1日1日を悔いのない喜び
に満ちた楽しい日々の積み重ねで過ごしたいものです。
あの時に検査に行ってガンを見つけ出さなかったら今頃はあの世かもね。と言われる危なかった命を通り越して、命と隣り合わせになったことのある者のみが
しみじみと味わえる幸せです。命なしでは何も出来ません。命を大切にしましょう。
お役に立てることがございましたら何時でもお申し越し下さい。
専門については寺尾先生にお聞きしてお知らせいたします。
(福岡に済む慢性C型肝炎の従妹が、市民病院で3年前にインターフェロン治療を半年間受けましたが、終わるとすぐにウイルスが返り咲き、そのまま検査だ けで、3年間主治医が毎年代わり、代わる毎に、まだ肝硬変にはなっていませんね。今年の9月でペグ治療が受けられるタイムリミットである70歳になるの で、最後のチャンスと2月5日から寺尾先生の治療を受けています。1年経ったら、このお話もできるかもしれません。)
略歴
寺尾 英夫(てらお ひでお)
長崎県大村市出身
1973年長崎大学医学部卒業
同年から長崎大学熱帯医学研究所病理学教室
1981年から大分医科大学内科
1985年から同大学保健管理センター助教授
1995年から同センター教授・所長、現在に至る
医学博士
日本肝臓学専門医、指導医(専門は肝臓病学)
1990年12月~1992年7月ドミニカ共和国「消化器疾患研究・臨床プロジェクト」の初代チームリーダー(JICA)。以後、年1~2回程度ド
ミニカ共和国にて医療活動を続ける。
ドミニカ共和国サント・ドミンゴ自治大学名誉教授(1995年)
シバオ技術大学名誉教授(2000年)
サンチアゴ技術大学名誉教授(2001年)
キューバ消化器病学会名誉会員(1998年)
「ドミニカ共和国古老談」より引用
C型肝炎~突然の宣告
私の場合C型肝炎と診断された時は、突然事故か何かにあったような納得できない思いでいっぱいでした。(言葉にするとたったこれだけですが)
それは平成2年の春、家にかかって来た電話が聞こえず、驚いて耳を代えると反対の耳は聞こえました。当然の事ながら耳鼻科に飛び込みました。
当時流行っていた突発性難聴で、時をおくと治らなくなるから、今すぐ県立病院の耳鼻科に入院するようにということなので、私の目の前で県立病院入院の予約
をしてくれました。
入院は2週間位ということで、何はともあれ、私は両足が悪いのに(重度障害者です)耳まで悪くなっては大変と、そのまま入院しました。(私の家は大 分県の最南部の町佐伯市で県立病院までは車で約1時間半くらいかかります)治療の結果は5日目くらいにはもう聞こえるようになっていましたが、1クール2 週間やらないといけないということで治療を続けました、この時の治療法のメインはステロイド1リットルの点滴と、ブロック注射でした。
このブロック注射をすると喉が麻痺するので唾も飲み込めなくなり、昼食は麻痺が無くなってからでした。このような毎日の治療の終りの頃、主治医がオ
ロオロしながら言いました。「大変です、血小板が毎日1万ずつ下がっています」(血液検査は毎週していて、その日まで何も言われていませんでした)が、無
知であった私には血小板が下がったのがなぜ大変かも分かりませんでした。(血小板が下がるのは肝臓の機能がおちていることのようです)そんな経緯で内科受
診に回され、内科の先生に言われた言葉は簡単に言えば
「あなたはC型肝炎です。治療をしましょう。」でした。
リンク集
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定年退職に際して 定年退職 にあたって準備しておくことやその後の生活に必要な事柄について調べてみました。
日本山人参 健 康維持の為に、「みっちゃん姉」が飲んでいるお茶です。
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C型肝炎~なんで私が
ちょっと待ってよ。私の悪かったのは耳で、何でC型肝炎の治療をしないといけないの。
きっと耳鼻科の薬の副作用(当時ステロイドの副作用のことは結構取り上げられていました)でこんな病気になったのだと思い、県立病院入院で当初の難聴は癒
したが、薬の副作用で次の病気を引き起こしたから県病は藪医者だと思いこんでしまいました。
というような納得できない経過でC型肝炎を宣告されました。とても受け入れられるものではありません。多分皆さん方もC型肝炎を納得のいかない思い で宣告されたと思います。
さあ、こんな所に長くいたら大変と、以後の内科受診も治療も拒否し続け、治療拒否で強制退院という形でやっと退院したというか、逃げ帰った というような経緯があります。
でも最後に内科の先生はそんな私に腹を立てて、このままにしていると10年経ったら癌になります。と言い放たれました。
こんな納得のいかない状況で私とC型肝炎との長い付き合いが始まりました。
でも別に何の自覚症状もありませんでしたし、元気に仕事もできていましたし、忙しい時は徹夜もしていました。これがもの「言わぬ肝臓」の特 徴ということは知っていましたが、自分のこととしては受け止めていませんでした。
気にせず、気ままに
退院して家に帰り、地元では設備も整い一番良いと思われる南海病院で受診し、やっぱりC型肝炎と言われ、治療を受けることになりました。この時は、こ
の病院には専門の肝臓医がいなくて、医大から週1回診察にみえる腎臓病の専門医が取りあえず主治医でお世話になりました。治療にキョウミノ注打3アンプ週
3回でした。
先生には申し訳ありませんでしたが、肝臓の専門医でないということは、私にとってはやはり頼りなく、心配でした。行ったり休んだりし
ていたと思います。主治医が信じられないことほど患者にとって不幸はありません。
そのうち肝臓専門医が医大から火曜日の午後診察に来られるようになりました。(このドクターは、C型肝炎の友だちに紹介され、この後15年以上のお
つきあいとなる肝臓学会で大分県の責任者であり指導医でもあります。
大分大学の教授、医大の教授、医学博士という凄い肩書きの方でしたが、(小さ
い声で言いますと初対面はなんだか近寄りがたく、感じは余り良くありませんでした)ところが、なんでこんなになったのか思えるくらいに仲良しというか、気
が置けないというか、お友達みたいになってしまいました。
これは多分、先生に家出おばさんと言われますが、6年余間も治療を受けないうちにガンになって、オマケによその病院の依頼状等を持って帰ってきた 時、やさしい気遣いを受けて私の心が全開したことと、お断りしたのに寺尾先生への依頼状を下さった、検査を受けた先生に手紙を渡すようにと持たされまし た。
多分私のことを書いた書面と思います。先生の心の広さ、優しさが心の琴線に触れてのことだと思います。友だちたちには「寺尾先生からよく引き取っ
てもらえたね。」と言われました。
このように大変なことになるとは思いませんでしたが、C型肝炎はなかなか手強い相手のようです。
後の話ですが、肝臓学会主催の無料市民肝臓公開講座で体験談などもいたしました。(私の病歴が、C型肝炎のお手本のような経過をたどってガンになっ て いったとの理由からだそうです。)
やっと専門医が主治医となり、治療として週3回、1回の量5アンプのキョウミノの注打を受けましたが、(後で知りましたが、これは対処療法でしか なく直すための治療ではありません)1経っても、2年経っても当然ながら少しは良くなってきましたよ、というような言葉は1回も聞いたことがなく、私自 身も体の調子が悪くなっているという自覚症状もなく何の変化がありませんでした。(ただ、先生は肝機能の数値が下がり落ち着いてきたと言っていました。)
その当時の推移を表にしていますが、それをこの体験談に付けて下さるそうです。
当時、まだC型肝炎の正体を知らない私は何年間も良くもならない、悪くもならない症状に飽き飽きしていました。(医師は分かりやすい言葉で、患者 が理解できるように、肝炎について説明がされていないと思います。私も同じでした。が、先生としてはきちんと説明しているつもりです。専門用語で、理解し たかも確認なしだのに、分かってくれていると思いこんでいます。又、聞いている患者も真剣に聞いていない部分もあります。)
その頃には、いつも会うたびに主治医に「インターフェロンをした方がいいよ、貴女はウイルスが少ないから治るよ。」と言われ続けました。C型肝炎 ウイルスにはⅠ型とⅡ型があります。私はⅠ型でウイルスが多い方なんだそうですが、当時はⅠ型としては少なかったようです。
でも私にはインターフェロンをやりたくない事情がありました。このドクターを紹介したのは友だちの彼で(彼氏の彼ではありません男性という意味で す。)この彼から(当時彼はもう肝硬変までいっていたようでした)、「1回やるのに半年もかかり、お金も200万くらいは掛かるとか、(当時保険が適用さ れていませんでした)ひどい熱が出るとか、人によっては熱の出る時ベットがガタガタするくらいな寒気がくるとか、食欲がなくなるとか、吐き気がするし、髪 の毛も抜けるとか、うつ病になるし、自殺した人もいる。
やった人の1/3は確かに良くなるが、1/3は全然変わらなく、あとの1/3は逆に副作用で悪くなり、死んだ人もいる。それを入退院を繰り返しなが ら見てきたから絶対にしない方がいい。」と言われていました。そんなことを聞いて200万なんてお金もないし、どうして30パーセントに命がかけられます か。でも主治医は私の心とは違ったことを考えていたのでしょうが、当時の私には分かりませんでした。
医者は説明の言葉が足りないし、分かりやすく説明ができていない。(患者と目線が違う)何故インターフェロンという厳しい治療が必要かというと、 C型肝炎ウイルスをやっつける可能性を持っているのはインターフェロンだけでした。
C型肝炎ウイルスに感染した場合約80パーセントが肝硬変からガンに移行し、死亡していくといわれておりるので、肝臓ガンにならないために当時成功 率30パーセントというインターフェロン治療を薦めていたわけです。医師側は30パーセントでも助かるのなら、賭けるべきではないかというわけです。)と いうのが平成12、3年頃の治療法の主流でした。
主治医に彼がこんなことを言ったと言うわけにもいかず、インターフェロンから逃げて1回休んだのがきっかけで治療をずるずると6年以上休み続けまし た。
こんな時、もと病院の婦長をしていた友達が心配して検査を受けるようにと言い続けてくれました。自覚症状が殆どない肝炎に、当時忙しかった私は検 査なんかに取りあっておれませんでした。
自分の気持ちの中では肝炎が悪化しているとは思えなかったからです。自己診断とは自分に都合がいい ように判断するようです。本当はこれが一番怖いんですよね。
そして、肝臓がんの宣告
平成11年12月22日午後、急に時間の空きが出来たので、検査をして肝臓が悪くなっていないことを証明して、楽しい正月を迎えようと思い、午後か らでも診てくれる病院で検査を受けました。
呼ばれて入ったのですが、「家族の方を呼んで下さい」と言われ結果は聞かされませんでした。
とっさに思い浮かべたのは県立病院で先生に腹立ち紛れ言われたこのままにしていたら10年経ったら癌になるという言葉でした。
ということは、やっぱりあの時、県立病院で言われた言葉が本当のこととして私の体に現れたのだと、そう思ったのです。(この私のたどった経過がC型 肝炎の教科書通りのようです)